じいちゃんのこと
年が変わる前に、祖父が亡くなった。
ここに書くかは少し悩んだのだけれど、これを読んでくれている何人かはじいちゃんに会ったことがあると思うので、きちんと知らせておこうと思って、載せることにした。
祖父は高知に配属された白菊特攻隊の生き残りだった。
じいちゃん自身は実戦には出ていない。
教官、つまり特攻する隊員を見送る立場にあった。
戦後は航空自衛隊に飛行機乗りとして勤務し、定年後は交通安全の指導員として通学路に立っていた。
終戦を向かえたとき、彼はまだ21歳だった。
じいちゃんからは本当にいろいろなことを聞いた。
じいちゃんは同じことを何度も話すので、僕はだいたいのエピソードを覚えてしまっている。
日本で5番目の通信の免許を持っていること。
肺病で米国留学をしそこなったこと。
盲腸の手術直後に軍刀を杖にして陣地まで帰った伝説。
勤務中の飛行機から自宅の庭にお菓子を落としていたこと。
敗戦後の上官の自決を止められなかったこと……。
あまりに何度も聞かされたので、正直言って多少辛いものがあったが、それだけ伝えたいことだったのだろう。
というのもじいちゃんは全然ボケてなんかいなかったし、むしろしっかりしていることで評判だったからだ。
じいちゃんの話の中で、戦争の無意味さとか平和憲法とか、そういう内容が出てくることは無かったと記憶している。
ほとんどが武勇伝と笑い話のようになってしまっていて、シリアスに受け取ることはあまりなかった。
けれど、じいちゃんがずっと戦争を背負い続けていることは、その笑いの陰から痛いほど伝わってきた。
特攻を、自分の教え子たちが苛烈な(そしてほとんど無意味な)肉弾攻撃を仕掛けるのを見ていて、なにも感じないはずがないじゃないか。
まして祖父はそれを助長する立場にあったのだ。
毎年慰霊祭のために高地に行くことを欠かさなかった。
今だから思うのだけれど、じいちゃんの中で戦争はまだ終わっていなかったのだろう。
昨日、三重県の松阪にある祖父の家でお別れ会をした。
生前にじいちゃんが指示していた通り、本格的な葬式ではなくて親戚と近所の人に集まってもらうだけの会。
本格的な納骨式は後日じいちゃんの実家のある九州で行われる予定だ。
夜には親戚だけで遺影を前にして酒を飲んだ。
強烈だった人物を思い出す話には、自然と花が咲いた。
亡くなる2週間前に飲みたいと言っていた、ボジョレー・ヌーボーを開けた。
たぶんテレビで見て、試してみたくなったのだろう。
新しい物が好きな人だった。
勤勉でもあった。
最後までNHKラジオで英語や中国語を勉強していた。(何度か電話で英語の相手をさせられた)
ばあちゃんが生前に聞いた言葉として教えてくれた。
「俺は4人もの孫に恵まれて幸せだ。帰ってきて本当によかった」
僕も恵まれた祖父を持って幸せだ。生まれてきて本当によかった。
個人の遺言に従って、遺骨は三つに分けられて埋葬される。
ひとつは三重に。もうひとつは実家のある熊本に。
そしてもうひとつは高知の海に。
じいちゃんの保管していた刀は、将来僕がもらえることになっている。
手入れはきっと大変だけど、僕はそれを楽しみにしている。
IMG_9039, originally uploaded by 18 till I die..
2004年、サークル同期と
2006年、イケマチ、ネギと再度訪問の際にて










