「若者はなぜうまく働けないのか?」という問い

普段からチェックしている内田樹先生のブログの内容が、今日はすごく自分にミートしたので、取り上げてみることにした。
字が結構多いですが、大多数は引用です。
お題は「若者はなぜうまく働けないのか?」

まず、労働とはなにかを、若者がうまくつかめていない現状について、

労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。
報酬はつねに集団によって共有される。
個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。

読んだ瞬間、結構がつんときた。
正直言って、僕にはこの概念が全くなかった。
努力は全て個人に回帰される物という認識のみでやってきた気がする。
だけど、労働に対する認識をこの意見を取り入れて改めると、学部時代のバイトで上司と対立したこと等も、理解できる気がする。
社会がこういう価値観で動いていると考えると、いろんなピースがすんなり収まる。

そしてモチベーションと労働から見た若者について、

若い人たちは「やりがい」ということをよく口にする。
「やりがいのある仕事」を求めて、たびたび転職したりする。
この場合の「やりがい」ということばを年長者は「使命感」とか「社会貢献」ということと誤解しがちだが、当人たちはたいていの場合「受験勉強と同じ」という意味で使っている。
つまり、自分の努力の成果が、まちがいなく自分宛に、適切な評価を受けてもどってくるような仕事のことである。

うん、うん、そうですね・・・、確かに・・・、とうなずいてしまう。

そして最後が秀逸。
少し長いけれど、読んで欲しい。

仕事のモジュール化は90年代に「アウトソーシング」と「非正規雇用への転換」としてコスト削減の秘策とされてもてはやされた。
それは「オレの仕事」と「となりの人の仕事」がきっぱりと分離され、自分の仕事については自分が100%責任を持ち、その成果も損失も自分が引き受けるというスタンドアロンな労働環境を求める求職者たちのマインドともジャストフィットした。
ご本人たちは気づいていないが、若者が「やりがい」を求めるほど、彼らを傭う賃金は安くすることができる。
このシステムを雇用者たちは最大限に活用した。
「職能給への切り換え」や「独立事業部制」を求める若い人は今も多い。
彼らはそうやって仕事を他者たちから分離し、誰からもあれこれ指図を受けない独立の労働圏を確立したら、「はたらく自由」が手に入ると思っている。
だが、それが彼ら自身の労働条件をどれほど切り下げているか、そもそも労働意欲をどれほど損っているのか、当人たちはまだ気づいていない。
彼らが手に入れたのが実は「過労死する自由」かもしれないということに気づいていない。

目から鱗ではないですか?

システムを理解すると言うことに意識的ならないと、すぐにこの溝にはまってしまうそうである。
僕も落とし穴に落ちる可能性が高かった方だと思う。

社会に出ていない僕が、今すぐ何かを言うことはできないけれど、労働するという意識を問い直すことは、常にしていきたい。

WWDCの写真をまとめて公開

WWDCの写真をいつものflickrスライドショーで公開します。
あれから早一週間か。

時差ボケ未だ解消せず

一週間たった現在も時差ボケがとれずに、生活リズムがぐちゃぐちゃのままです。
なぜだ・・・。
起きたら17時で授業すべて終了とか、2時に起きてから4時に寝る、とか。
おかげで先週はたいしたことができなかった。

いまさら佐世保バーガー

と言われるかもしれないけれど、奈良では初めて見たのでついつい食べてしまった。

高の原イオンで1000円なり、高いなー。

奨学金が入ったのでついつい買ってしまった。

結局借金なのだが…

美味しかったので、深くは考えないことにする。

資格に意味なんてないのか

TOEICの点数が上がっても、正直言ってむなしさが残った。
先週のWWDCで、自分が英語をしゃべれないことは、
いやと言うほど認識していた。
僕はこの点数に見合う英語力を持っていない。
それが正直なところだ。

同じことをソフトウェア開発技術者の資格の時も思った。
取った瞬間は嬉しかったのだが、資格を持っていても、
実際に自分がソフトウェアを書けるわけではないことが、次第にわかってきたからだ。

資格って一体何なんだろう。
勉強している間は一生懸命なのに、終わるとすぐに忘れてしまう。
実力を測れる尺度がない、という需要はわかるのだけれど、
もっといい方法はないのだろうか。
こんな文字列しか書けない履歴書というのは、なんだか悲しいじゃないか。

僕の個人的な感想としては、資格の勉強に時間を注ぐくらいなら、
実際に手を動かしてなにかやった方が良いように思う。

結局資格は、うまく世渡りをするための方便でしかないのか。